阿久根焼酎の歴史

鹿児島では日本各地と同じように清酒作りが古くから行われていましたが、温暖な気候のもとでは良質な酒は求められません。そこで1500年頃から醪を蒸留して焼酎を造る技術が伝わり、薩摩の地に定着しました。当時の阿久根は交易の拠点として賑い、琉球や東南アジアとの行き来がありました。関ヶ原の合戦から間もなく第二代薩摩藩主島津光久は阿久根投宿の折に献上された焼酎の旨さに、「諸白(もろはく)」と称して絶賛しました。その後江戸時代の終わりまで、阿久根焼酎は国分煙草と共に薩摩藩を代表する銘品でした。江戸において阿久根焼酎は灘の酒以上の高値が付いていました。(江戸買物獨案内1824年文政七年)
阿久根の地に蔵を構える鹿児島酒造黒瀬杜氏伝承蔵、東シナ海を望む斜面に、潮風と昔から住み着く蔵の酵母の恵みを受けて毎日々焼酎造りに励みます。 

鹿児島の焼酎の歴史

1500 年代には庶民が日常的に焼酎を飲んでいたことが文献から分かります。フランシスコ・ザビエルに宛てた書簡に詳しく書かれています。
1600 年代 阿久根焼酎の味が藩主に認められ、その後江戸時代には薩摩藩の阿久根焼酎と国分煙草が全国で大きな評価を受けています。 薩摩藩の大きな稼ぎ頭でした。
1700 年代以降 さつまいもの伝来後の薩摩藩では郷士の家庭で主婦が焼酎を味噌・醤油と同じように造っていました。 
1900 年頃 明治政府は既に家庭での酒造を禁止して、集落ごとで製造することになりました。 
この頃から鹿児島ではやっと焼酎が販売されるようになり、販売を目的とした蔵ができてきます。この時代に合わせて登場したのが黒瀬杜氏の集団です。黒麹を使い従来の黄麹よりも質の良い焼酎を造ることで商業化がさらに進みました。麹米や仕込み方法にも改良を加え焼酎の品質向上が一気に進みました。鹿児島のみならず九州全域の蔵元から声がかかるようになり、杜氏集団はやがて300名を超える規模となります。その創世記に活躍したのが黒瀬金次郎であり、鹿児島酒造㈱黒瀬杜氏伝承蔵の総杜氏黒瀬安光は三男にあたります。  

鹿児島酒造㈱の歴史

昭和42年 黒瀬安光 阿久根工場に着任
 15歳から九州各地で修行をはじめ、各種原料の焼酎造りを会得しのち阿久根に定住しました。
幅広く習得した技術を今度は深く掘り下げる修行に取り掛かります。 
河内源一郎商店で麹の研究に専念し、焼酎麹のすべてに精通しています。その後長期貯蔵技術の研究と焼き芋焼酎の開発を行いました。 
 
 黒瀬金次郎に始まった黒瀬杜氏の焼酎造りの技術は黒瀬安光に引き継がれ、そして、その技術はいま杜氏弓場裕(ゆみばゆたか)へと引き継がれます。